2019年2月 劇団アカズノマ「夜曲」(石塚朱莉がツトムのこと)

今年2月に劇団アカズノマの公演「夜曲」を観に行きました。

前提

  • 演劇はあまり知りません。
  • 音楽をよく聞きます。
  • 石塚朱莉さんの薄いファンです。
  • 石塚さんの(NMB48の)公演とかコンサートはあまり観たことがない。
  • これまでに上演された「夜曲」も観たことはありません。


この記事ではいちばん大きな感想を、つまり、女性である石塚さんが青年男性である「ツトム」役を演じた意味について考えたことを書きます。(よく知らないので浅薄で恥ずかしいかもしれないけど。)

 

もともと「夜曲」は1986年に初演されて以来、いろいろなキャストで上演されてきた名作だそうです。女性がツトムを演じるのは初めてっぽいです。

石塚さんのツトムは、ひょろっと細くて手足が長くて、それがコミカル。そして、早口で(男性にしては)声が高くて、何もしなくても全体的に軽くて薄い。まあ、現代っ子です。対するのは、武士組(便宜的にこう呼びます)。彼らは700年前の人たちで、特に十五や虎清は武士だ。ツトムと武士組の対比がこの物語の重要な軸で、それを表現するのに、女性でありつつその気になれば華奢な青年のようにも見せられて、お調子者の石塚さんが最適だったのだろうと思うのです。(普通の男性 対 ゴッツイ男性というストレートな表現もできるでしょうけど。)

ツトムと武士組のコントラストは、容姿だけでなく人物描写にも及びます。武士組は各々が重厚なバックグラウンドを持っています。過酷な運命にさらされていたり、強い思いを抱いていたり。序盤からずっと物語を引っ張るのは武士組で、ツトムは右往左往するばかり。そればかりか、結局、ツトムのことはほとんど語られません。家族は?恋人は?仕事は?どんな子供時代を過ごしたの?ただ、放火が好きとしか紹介されない。そんな主人公を観客はどう理解して、思い入れればよいのでしょうか。

ただ、ふと気づく瞬間がありました。あれ?武士組じゃなくてツトムが俺なんじゃないかな?

だいたい私たちは何にもないですよね。同じじゃん。それに、ツトムは何にもないから、そこに自分を投影できるとも言える。男なのか女なのかすら曖昧だし。

重厚な武士組に対する軽薄なツトムという構造自体が物語なのだと思います。

そんな中、ツトムは何もせずに終わるのだろうか。十五が「正義とはこの手を血で汚すことだ」と慟哭するシーンは、クライマックスと言っていい。そして、この物語の重要な側面の一つが、ツトムと十五の友情物語である。つまり、十五の言葉はツトムを動かした。サヨに背中を押されて「蚊帳の外」で傍観者だったツトムがこの物語に終止符を打った。彼らしい方法で大切なものたちを葬り去って、だからこそラストのツトムは清々しくあるのだと思う。

ひょろひょろの細い脚で彼の人生を歩き出そうとするツトムに、石塚さん自身を重ね合わせてしまい、そのようすを思い浮かべると泣けてしまう。(ファンだからね……。)ツトムの未来に幸いがありますように。

(その他の感想も気が向いたら書きます。ジェンダーのこととか。)